快晴。
今日も7時くらいからコンの散歩。
4月も半ばを過ぎてやっと、私という機械に油が回ってきた感じ。
スローリーだが滑らかに、動きだした。
今日は午後から友人が来た。
久しぶりだったのでいろいろ話した。
彼女は、一途な人だ。
小さい頃なりたかったもの、それはお母さん。
パートナーとめぐり逢い3人の子宝に恵まれる。
必死で3人を育て上げた。
1人ひとり個性的ですばらしい子供たちだ。
彼女との出会いは、私がうつぶき公園クリニックにいた時だから
10年以上前。
布ナプキンを教えてもらったのがご縁だった。
以前住んでいた東京で、母乳育児の大家山西先生におっぱいケアをうけ、
時々電話で話すような特別な関係をもっていた。
松江の開業助産師、持田先生を紹介してもらったのも彼女だった。
私は助産師という肩書は持っていたが、中身は空っぽだった。
(今も大したことはない。)
それに比べ、彼女は資格こそないが、物事の善悪、道理がはっきりしていて
何よりぶれない人だ。
けれど、その為に経営者と衝突したし、理不尽な扱いも受けてきた。
よくしゃべる彼女。時には機関銃のように。
必ず余韻を残して帰っていく。
耳の痛いこと、忌憚ない意見をくれる貴重な存在だ。
私はおもう。
子どもを産めば自動的にお母さんになる。けれど、
お母さんをすることが大事だ。
社会は女性の就業率アップをねらいあの手この手を打ち出している。
病院勤務時代、3年の育休をとった。
その間、いつでてくるのか。研修に参加しましょう。面接にきて。
再三電話や文書がきた。
管理職としては一人でも早くに復帰してくれたら職場の負担は減るし
役職として当然のことかもしれない。
それに、自分たちの頃は、プロとは、キャリアビジョンとは
・・・と思っているかもしれないが。
今は、お母さんになる時間を許してくれない感じがする。
代わりに、責任だけはしっかりのしかかる。
我が子とゆっくりそしてしっかりと育ちあう時間を確保することで
育児が育自になりお母さんが作られていく気がする。
友人の彼女はいった。
「お母さんは立派な仕事だよ」と。
私もそう思う。
けれど、お母さんをすることは周りからあたりまえのこととしてみられ、
給料も出ないし、自己犠牲は当たり前なんて思われている感がある。
以前、助産師外来で
「人間一人育てるのは大変なことだよ。誰もほめてくれんかったら自分でほめて。
すごいことしとるんだよ。自信もって。」
と話したら、泣き出した専業主婦の経妊婦さんがいた。
その妊婦さんは自分は子育てしかしてなくて世界が小さくて
人間としてこれでいいのかと思っていたようだ。
「ひさちゃん、かわったね。」帰り際そういわれた。
「子どもがひさちゃんを変えたんだよ。」ともいわれた。
私は自分を決していいお母さんなんて思っていない。
ほんとにそう思っている。
ただ、いいお母さんになりたいとは思っている。
でも、いいお母さんってどんなだろうなあと問い続けているような。
答えがでないまま、おばあちゃんになり、同じように問い続けるのかもしれないな。
*庭のコデマリ。大きくカーブを描き流れるように咲きほこる。
花が咲いていないときは、柔らかな黄緑色がほしくて飾ったことも。
少し離れたところに、オオデマリもある。
今は、雪柳が終わり白い花がないので(自宅には)ありがたい。
手毬のようにまるいからか、ぽんぽんっと触りたくなる花だ。
Comentarios